「にいさま・・・姫、恥ずかしいです・・・」
「恥ずかしい? 何で?」
布団に横たわる白雪のパジャマの中から、乾いた電子音が響く。
言っておくけど、別に怪しいことをしてるわけじゃない。
ひとつ開いたボタンの隙間に手を入れて、僕は体温計をそっと取り出した。
「だって、姫・・・」
「38度1分か」
僕はゆっくりと、デジタルの数字を読み上げた。
「昨日の夜より下がってるね。熱さましが効いてんだな、きっと」
「・・・・・・」
「うん?」
「・・・みんなにいつも、健康のこと、うるさく言ってるですのに・・・」
「はは」
体温計を片しながら、僕は短く笑った。
いかにも白雪らしかった。
「それじゃ、これからは手洗いとうがいを忘れないようにしなきゃね」
洗面器に水の入ったコップと体温計を入れ、そのまま流し台へ持っていく。
2階の窓からは、街を照らす太陽がよく見えた。
咲耶がお粥を作る隣で、僕は白雪に聞こえないよう呟いた。
「もうカップ麺食べても、怒られないかな」
「これからは余計ダメだと思うな、私」
咲耶はナベを覗き込んだまま、ハッキリと言った。
「またまたぁ・・・」
発言の真実味にちょっとだけゾッとした時、窓の端で、花壇の前に立つ鈴凛の姿が目に入った。
黄色のマフラーが、まだ冷たい風に少しだけなびく。
学校にはもう、出発するだけになっているようだった。
「姫・・・」
僕の隣で、咲耶が振り返る。
「鈴凛ちゃんにも、申し訳無いです・・・」
それくらいに消え入りそうな、弱弱しい声だった。
鈴凛と白雪は一昨日まで、一緒の部屋で生活していた。
だから白雪が、受験を間近に控えた姉の心配をするのは、当然の事だった。
「そういえばさっき、鈴凛が言ってたよ」
僕は目線の先、微動だにせずに佇む鈴凛を見つめたまま言った。
「熱も測ったし、体もどこもおかしくない。至って健康だってさ」
咲耶がふいっと、僕を見たのが分かった。
鈴凛はそんなことは、一言も言っていない。僕はとっさの嘘をついた。
最も、今朝の鈴凛は何か、考え込んでいる様子ではあったが、具合が悪そうでは決して無かった。
「そ。病人は余計なこと考えないで、ゆっくり休みなさい」
僕の言葉を補うように、咲耶が続けた。
白雪が紅くむくんだ顔で、微笑みを返す。
それはやっぱり少し、弱々しいものだったけれど。
余計な心配は、これ以上しないで欲しい。
「咲耶、折角の休みの日に悪いけど、今日一日白雪のこと頼んだよ」
一週間前、平悟さんから電話で告げられた時刻を、僕は胸の中で反芻する。
咲耶はちょうど、お粥を作り終えたところだった。
ナベから手を離し、ガスの元栓を締める。
「もう、お兄様ったら。そんなこと気にしないで」
茶碗とスプーンを用意しながら、諭すように咲耶が笑う。
ごめん。僕がそう言いかけた時、遮るか細い声がした。
「にいさま・・・お出かけですの?」
僕らはその主へと、ほぼ同時に顔を向ける。
「ああ。平悟さんのところに、勉強しにね」
「にいさまが・・・勉強ですの・・・?」
僕は苦笑いを浮かべた。
何て答えりゃ、いいんだろう。
「うん。勉強って、どうやら死ぬまで続くらしくて」
勉強ったって、アシスタントしに行くだけだ。
人生訓めいた言葉を吐いたことに自分で苦笑しながら、僕はドアノブを握る手に力を込める。
「ちょっと支度してくるよ。あ、夕飯までには帰るから」
作者:いちたかさん
「よお、真希ちゃん」
名を呼ばれ、茶髪のポニーテールを風になびかせる少女が歩みを止める。
衛の学校の有名な不良少女、服部真希。
すらりとした脚を覆うジーンズのポケットに突っ込んだ手を、少女は挨拶代わりに上げてみせた。
「遅えから来ねえと思ったよ」
背の高い少年が真希に、そう声をかける。
撫子川の上流、寂れた公園を囲む森の散歩道。
そこから少し外れた人気の全く無い空き地に、私服の少年少女達はたむろしていた。
「色々面倒なことが起こっちゃってさ」
真希が、ふう、と一つ嘆息する。
「あの子がね、言っちゃったんだよ。金を盗んだって。だから、色々」
少年達に、微かな動揺の色が浮かんだ。
「それって、ぶっちゃけどうなの?」
赤のメッシュの少女が、ガムを噛みながら言った。
真希は少年達を見渡しながら、腰に手を当て言葉を続ける。
「ま、トーゼン信じちゃもらえなかったけどね。みんなあの子を守るのに必死だからさ。けど・・・」
真希は次のセリフの前に、わざと溜めを作った。
事の重大さを、少しでも印象付けるために。
「あの様子じゃ、アンタ等に脅されてるってことも、言い出しかねないよ。勿体無いけどさ、
『使えなく』なったんじゃ、しょーがないでしょ。パクられるよりマシだし」
「マジかよ・・・。どうする? シュウ」
集団の奥で話を聞いていた少年に、視線が集まる。
真希も例外ではない。
このグループのリーダーでもある、自分の義理の兄の反応を、真希は待った。
「そうかい。思ってたより根性あったって事だな」
修治は落ち着いた様子で、耳の穴をほじりながら、言った。
「あのガキは、もう諦めるしかねぇか」
勝った。
真希は心の中でほくそえんだ。
このままこの場が解散すれば、事は自分の思い通りに運ぶ。
はずだった。
「仕方ねぇ。真希、頼みがあるんだけどな」
「何?」
「今すぐあいつ、ここに連れてきてくれ」
真希の身体が強張る。
修治は手にしていたナイフに視線を落としながら、続ける。
「別にいいんだよ、あいつが何喋ったって。カモなんざ他に、いくらでもいるしな。
パクられんのだって、これっぽちも怖かねえ」
緑色の柄のナイフが、真希の視線の先で不気味に動く。
「ただ、ナメられるのだけは気にくわねえ。勝ったと思われたまま、終わらせたくねえんだよなぁ。
な、俺の言いたいこと、分かるだろ?」
動きがが止まった。
自分に向けられたナイフに、真希は思わず息を呑んだ。
「違う・・・あの子は、ただ怖くて・・・」
震えそうになる声を、必死で抑える。
今呑み込まれれば、全てが終わる。
まともな思考ができなくなりつつある自分を、呪ってやりたくなった。
「連れて来い今すぐ。ミディアムにしてやる」
この場合のミディアムとは、ギャングの少年達のスラングの一つで。
意味は、半殺し。
「何ならぶっ殺してやろうか。なぁ。こいつで2、3回えぐってやれば―――――」
自分でも不思議なほどに、ピタリと震えが止まった。
急速に沸騰した怒りが、少女を奮い立たせていた。
「やめろ!」
真希の絶叫に、空気が震えた。
「桃子は何も関係ない。アタシが全部言ったんだ、先公に」
「つまりお前が、裏切ったって訳だな」
勝ち誇った顔で、修治が最後の一言を浴びせる。
真希は何も答えられず、唇を噛んだ。
修治は自分の嘘をある程度見抜いた上で、試していたのだ。
自分が言い逃れすれば、桃子は間違いなく、二度と街中を歩けない顔にされる。
そんな人たちを、自分は何人も見てきた。
もう、自分の思い通りにはいかない。
諦めるしかなかった。
「泣かせる演技だったぜ。イモだったけどな」
修治が周りに目で、合図を送る。
同時にポケットから取り出す、今度は赤い柄の、バタフライナイフ。
少年少女たちが一斉に、真希を取り囲んだ。
抵抗する間もなく、真希は後ろから羽交い絞めにされる。
(ちくしょう・・・)
体格差で、真希の体がピンと反り返った。
「バカなこと考えたな、お前」
目の前に構える義理の兄を、真希は目を剥いて睨みつける。
「友達・・・だから」
「友達?」
「もうあんな事、させたくない・・・・・・」
少女はとうとう、自分の本音をぶつけた。
けれどこんな言葉で、義兄が言うことを聞くはずが無い事は分かっている。
修治は呆れたように笑うと、真希の足下へ唾を吐いた。
少年達のあざ笑う声が、聞こえた。
「お前、バカだろ。前にも言ったろ? あのユートーセイはな、お前が怖いだけなんだよ」
感情に急速に熱がこもる。
こいつらに自分たちの、何が分かるのか。
何を言われても、気持ちを変えてたまるもんか。
「このまま逃がしてみろ。避けられて、二度と口なんかきけないぜ」
「だから・・・それでもいいんだよ!」
精一杯、真希は言い切った。
突然の大声に、場がシンと、静寂に包まれた。
「バカが」
修治は苛立ちを表現するかのように、舌打ちを鳴らした。
「おい、口押さえろ」
命令された少年が、分厚い手で真希の顔の下半分を覆う。
あやふやな足下と鼻孔の奥を刺激する手の平の臭いに、自分の居場所が、曖昧になっていく。
(ごめん、モモ・・・。ミスっちゃった・・・・・・)
その時、真希は確かに見た。
地面に突き立てられた赤のナイフ。始まりの合図を。
「吐くなよ」
修治が口元を楽しそうに歪めて、大きな握り拳を固めた。
「『お兄ちゃん、可憐です。うふふ、びっくりした? 咲耶お姉ちゃんのお電話をお借りして、
初めてメールしています。』」
以前可憐からもらったメールが、丁寧に読み上げられていく。
ただし、禄郎の低い声で。
はっきり言って、気色悪いことこの上ない。
「おい」
「『可憐、お兄ちゃんが最初のお相手になってくれて、何だかドキドキしちゃう。』って、なんか
エロいな、この文章」
まぁ、可憐だし?
そう思いながら僕は作業の手を止め、すぐ後ろで胡坐をかく禄郎の方へ顔だけ向けた。
「人の携帯を勝手に開けるな、馬鹿」
禄郎は平然としながら、メールの続きと僕の顔とを見比べる。
「この子、メールに『うふふ』とかって入れるんだな。律儀に」
まあ、可憐だし。
僕はまた、口には出さない。
「残してあるお前さんも、相当律儀だ」
禄郎が笑って言った。
それは、ひょんなことから消したのがバレた時、悲しまれるのが嫌だからだ。
禄郎は僕と違って、見たメールはすぐに消す。それがどんなものであっても。
僕は机に向き直り、トーンの処理を再開した。
「いいからそこに置いとけよ」
「だって、ヒマなんだよ」
「なら何か適当なクラシックでもかけてくれ」
平悟さんが、仕事を進めながら会話に入り、男三人の声が交錯した。
禄郎がすぐさま、僕の携帯を脇へ置いて勢い良く立ち上がる。
やがて流れてきたのは、サザンオールスターズの『エロティカ・セブン』。
禄郎がこの家に置いている、数少ないCDの一つだ。
「『適当』だな」
平悟さんが皮肉げに言った。
禄郎は満足気にリビングに移ると、テレビの脇に置いてあったプレステ2を支度し始める。
僕は黙って、曲に耳を傾けた。
”夢の中身は風まかせ 魚眼レンズで君を覗いて
熱い乳房を抱き寄せりゃ 自分勝手に空を飛ぶ ・・・・・・”
僕と禄郎は、違う高校に進学している。
僕は、鈴凛が志望している高校に。そして禄郎は、お世辞にも優秀とは言えない、近くの工業高校に。
それでも、小中学生の頃の禄郎を思えば、合格したのは奇蹟だ。
当時の彼は、メチャクチャだった。
その頃の禄郎を知る者が、共通して彼に持っているイメージは、暴力とタバコだろう。
学校では僕以外とは誰ともつるまなかったし、禄郎はとにかく、小さい頃からよくケンカをした。
拳を返り血に染め満面の笑みで帰って来た日があれば、連絡も無しに何日も帰って来ないときもあった。
そして、売ったものであれ、売られたものであれ、彼は必ず勝った。
それでも家では、平悟さんを含め僕たち3人は、それなりに楽しくやれていた。
平悟さんがある程度の放任主義者だったことに加えて、僕たちは僕たちで気が合っていたからだ。
出会った初めの頃以外は滅多にケンカなどしなかったし、お互いのやり方がぶつかることも無かった。
けれどもそれは決して、安心や優しさといった言葉で飾れるものではなく。
それぞれが等身大の危うさを感じながらの、緊張感を欠かすことの無い、毎日だったのではないか。
まるで、ゴールの無い綱渡りのように。
最初に足を踏み外したのは、禄郎だった。
問題に次ぐ問題を起こした果てに、ある事件が起こり、中学では異例の停学処分、公的に言えば
重謹慎処分を喰らい、訴訟にまで発展しかけた。
覚悟していたとはいえ、事件の影響もあって殆どヤケになっていた禄郎は、遂に平悟さんにケンカを売り、
ボコボコに殴られた挙げ句、撫子川に投げ飛ばされた。
僕の知る、禄郎の初めての敗北だ。
そしてその時の僕はといえば、その一連の流れを冷めた様子で見物していた。
当時の僕は今よりも冷めた人間だったから、来るべき時が来たなと思うくらいで、馴れ合いで
それ以上の行動をとるのは気が進まなかった。
人間が経験の中で抱えていく負のエネルギーというものがあるとしたら、禄郎は外に向けて放出し、
僕は内に向けて溜め込むタイプなのだと思う。
ともあれ、文字通り充分に頭を冷やした禄郎は、それからは今までのような事はしなくなった。
売られたケンカに仕方なく手を出したり、タバコを吸ったり、たまに酒を飲んだ時に、
「楽しかったよ、あの頃も」
と、自嘲的に笑うくらいだった。
おそらく禄郎には、あの少女の歌声が、今でも耳に焼きついているのではないかと思う。
12時を知らせる鐘が街に響いた。
禄郎がコントローラーを置いて、ごろんと寝っ転がった。
「なあ、もう昼だ。飯でも食いに行こう。そうしよう」
禄郎の言葉に、平悟さんが原稿に向けていた顔を上げる。
「もうそんな時間か。メシなら冷蔵庫に入ってる」
平悟さんがペンを置いた。
僕もそれに合わせて、作業を止め、冷蔵庫へ向かう。
「冷やし中華と幕の内弁当がありますけど、平悟さんは」
「知ってるだろう?」
平悟さんは幕の内弁当に目が無い。大好物らしい。
なんでも一番古い記憶の食事が、幕の内弁当なんだそうだ。
「じゃあオレは冷やし中華で」
僕は箸やら飲み物やらを一通り揃え、テーブルに並べた。
そのラインナップを見つけた禄郎が、珍しく高い声を上げる。
「え? ちょっと待った。お前らの分しか無えの?」
平悟さんと僕は、顔を見合わせて、
「当たり前だろ。俺はお前を呼んだ覚えは無い」
「とゆうか、お前は一体何しに来たんだ」
2人して禄郎を口撃した。
禄郎が徐々に、ささくれ始める。
「何だよお前ら。なぁ、外に食いに行こうぜ。一日に一回は外に出ないとなぁ、癌になるぞ癌に」
素人医師のありがたい新説を耳にしたところで、僕たちにわざわざ外に出る気は起きない。
「食いたきゃ自分で買ってこいよ。車でさ」
僕はコップに牛乳を注ぎながら言った。
禄郎は呆れたように、外に目をやって舌打ちする。
「ケチくせえこと言いやがって、このネクラ野郎ども」
ケチだろうがネクラだろうが、別に否定しない。
禄郎は絨毯の上に転がる、くたびれた財布をジーンズのポケットに押し込み、玄関へと向かっていった。
手を洗っていた平悟さんがそれに気付き、声をかける。
「何だ、外に行くのか」
「あぁ? いいよもう。帰るんだよ」
飯にありつけないのにこんな所にいられるか、とでも言わんばかりの行動だった。
「そうか」
つけっぱなしだったテレビを、平悟さんはついに消した。
「じゃあついでに、茶とタバコを買ってきてくれ」
「あ、オレお茶じゃなくて牛乳ね。低脂肪じゃないやつ」
からかうように、平悟さんと僕は続けて言った。
禄郎は明らかに、カチンときたようで。
「うるっせえよ。もう来るかバーカ」
小学校低学年レベルの捨て台詞を残し、そのままさっさと帰ってしまった。
勢いよくドアが閉まって、後には寡黙な2人が残る。
「・・・静かになりましたね」
駐車場から車が出てゆく音を耳にしながら、僕たちは食事の席に着いた。
電線で文字通り羽を休めていたカラスが、飛び去っていく。
「いい事だ」
平悟さんが口の端をつり上げた。
隣の住人が支度を終え、外へ出て行くのが手に取るように分かった。
「待ってよ! モモちゃん!」
真希ちゃんの携帯を握り締め、私は走り続ける。
教室からずっと私を追う、衛ちゃんの声を置き去りにして
私は一刻も早く、真希ちゃんの元へたどり着きたかった。
彼女と私は同じ幼稚園の、幼なじみだった。
家もわりと近くだったから、率先して行動できるタイプの彼女に連れられて、よく山の中へ遊びに
行ったりした。
小学3年生になって、私たちは初めて別々のクラスになった。
彼女の様子が変わってしまったのは、その頃からだ。
お家で何かあったんだという事は、その時の私も噂話を聞いてなんとなくは分かっていた。
けれど、お母さんから彼女と遊ぶことを止められて、新しいお友達もできた私は、
次第に彼女を忘れていった。
足がガクガクと震え始める。
クラス一、足の速い衛ちゃんが追いつけないんだから。
無理をして走っているんだと、自分でも分かった。
倒れこむように電信柱に寄り添って、呼吸を整える。
乾燥した大気を吸い込み続けた喉は、もうカラカラになっていた。
そして、11月のあの日。私たちはまた、仲良くなれた。
最初は少し怖かったけれど、昔を思い出すにつれ、お互いの距離はどんどん縮まっていった。
まるで、それまでの時間を取り戻すかのように。
彼女が私に気を遣ってか、周りからは隠れてだったけれど、私はまた彼女と遊べるようになった。
塾のある日には、休ませてまで無理に誘うようなことはしない、本当はすごく優しい彼女が
昔と何も変わっていなくて、私はただ、嬉しくて。
予定帳に無い行動を取らせてくれる彼女が、やっぱり大好きなんだと、気付いた。
「モモちゃん・・・」
衛ちゃんが私の横に追いついてきていた。
私は聞かれる前に、握り締めていた携帯電話を衛ちゃんに差し出す。
「これに・・・電話があって・・・」
番号は、真希ちゃんの携帯のものだったから、私は何の疑いもせずに電話に出た。
声は、男の人のものだった。
私から、お金を取っている人。
その人から、私は真希ちゃんが私のことで話をしに来ているということを聞いた。
けれど、裏切ったから、どうなるか分からない。そう、言っていた。
私は午後の授業のことも忘れて、すぐさま教室を飛び出していた。
「真希ちゃんが・・・中学生の・・・人たちに・・・・・・」
それ以上、言葉にならない。
目の奥から、熱いものが込み上げてくる。
「うん! 分かった、モモちゃん。とにかく、急ご!」
衛ちゃんは私の手を引いて、一緒に走り出す。
その姿に私は、真希ちゃんと同じ温かいものを感じていた。
けれど、私は気付いていなかった。
衛ちゃんを、危険に巻き込んでしまったことに。
(明日はやっぱり、雨かな?)
部屋の窓から遥か向こうの空を見て、咲耶はふと、そんな事を考えた。
せっかく今日はいい天気だったのに。
そう思いながら手にした新聞の天気予報は、疑いようの無い下降線を示している。
「ただいまー」
階下の声に、咲耶は机から立ち上がった。
階段を下り、そのまま共同部屋のドアを開ける。
「あら、お帰り。早かったのね」
咲耶がそう声をかけた先で、鈴凛は黄色のマフラーを解いていた。
「うん、ちょっと頭が痛かったから、早引きしてきちゃった」
あっけらかんとした鈴凛の声だったが、咲耶の顔は強張っていく。
察した鈴凛がすぐさま、言葉を続けた。
「あ、大丈夫だよ、熱とかは無いから。保健室で測ってきた。大事を取って、さ」
「そう・・・」
咲耶がほっと、胸をなでおろす。
遠くの空から、カラスの声が届いた。
白玉荘は、静かだった。
「咲ねぇ、ちょっと・・・話したいことがあるんだけど・・・」
鈴凛がマフラーをハンガーにかけながら、咲耶に背を向け、言った。
「ん? なぁに?」
「アタシ、志望校変えようと思うの」
テレビのリモコンに伸ばした、咲耶の手が止まる。
「へ?」
予想していない言葉だった。
咲耶が顔を向けると、鈴凛も自分を見ていた。
志望校を変えるのはいい。それが本人の希望なら。
けれど、こんな瀬戸際になって。
咲耶が戸惑うのも、無理は無かった。
咲耶は、妹の言葉を待った。
自分から声をかけることは、できなかった。
「アタシ、本当に受けたい高校があって」
「受けたい・・・高校?」
ヤカンが沸騰を知らせる音に、咲耶は思い出したように台所へと向かった。
鈴凛は構わずに、彼女の背中に向かって言葉を続ける。
「静岡理工専って、あるでしょ?」
コンロの火を止めながら、咲耶は頭の中の情報を引き出した。
理系の偏差値が全国でもトップレベルにある、有名な大学だった。
「その附属高にしようか迷ってるの」
姉の顔色を伺いながら、鈴凛が言った。
言葉を選ぶようにして、ハッキリと。
それだけで咲耶は、鈴凛がある程度気持ちを固めていることを感じ取った。
「もう、そんな大事なこと、今まで黙ってるなんて」
「・・・ごめんなさい」
咲耶は大きくため息をつくと、テーブルの傍まで戻ってくる。
イスに腰掛けると、ゆっくりと尋ねた。
「でも、お兄様は知ってるの?」
「ううん」
俯いたままの鈴凛が、フルフルと頭を横に振る。
附属校は、明らかに今、鈴凛が志望している高校よりもレベルが高い。
合格の可能性がぐっと下がる事は、本人が一番承知しているだろう。
咲耶は口元に手を当てて、自分の考えをまとめ始めた。
ただ、甘やかすことになってしまうのかもしれない。
無難な道を示してあげるべきなのかもしれない。
けれど咲耶は、鈴凛に間違っても、後悔をさせたくなかった。
「・・・鈴凛、私の個人的な意見だけどね、受験に『失敗』なんて無いと思うの」
鈴凛が顔を上げた。
一呼吸おいて、咲耶は言葉を続ける。
「大切なのは、一生懸命挑戦することなんじゃないかな。だから、鈴凛がこうしたいって思って
そう決めたんなら、何も迷うことなんて無い。私は、賛成だわ」
「アニキ・・・、怒らないかな?」
おそらく、鈴凛が今の今まで言い出せなかった大きな理由は、これだ。
まるで愚問だとでも言うように、咲耶はすぐさま笑ってみせた。
「お兄様はそんなことで、怒ったりなんかしないわ。鈴凛が自分で決めたことだし、何より優しいもの」
荘太の持つ優しさは、その大部分が自分たちに対する遠慮からのものだ。
そんなことぐらいは咲耶だって気付いている。
けれど咲耶は、あくまで『優しさ』だと言い切った。
「うん、分かった」
咲耶の思惑通りだった。
さっきまで神妙な面持ちだった妹の表情が、みるみるうちに晴れてゆく。
「アタシ、アニキにちゃんと話すね。ありがとうっ、咲ねぇ」
鈴凛がハキハキと言葉を続ける。
普段の明るさが、確かに戻ってきたようだった。
「頑張ってね」
「うん」
これでいい。
滑り止めを受けていない鈴凛の今の状況は、咲耶だって分かっている。
けれど受験する本人の気持ちを考えたら、これが一番いいはずだ。
咲耶は勢いよく翻った後ろ姿を追いながら、そう自分に言い聞かせた。
赤に染まった草むらが、少女に起きた事態を物語る。
少年達の足下で、少女はうつ伏せになったまま、ピクリとも動かない。
衛は目の前で起きた出来事を、ただ呆然と、見つめていることしかできなかった。
(な・・・なんで・・・? どうしてこんなヒドいこと・・・できるの・・・?)
血のこびりついた髪。青く腫れあがった顔。
体中にできた、無数の切り傷。
同じ人間のした行為だとは、衛には信じられなかった。
この場所に着いた時、最初に目にしたのも今と同じ光景。
真希がぐったりと横たわり、それを無理矢理起こす少年達。
時おり大きく響く、悲鳴。
クラスメイトの少女2人は、休む間も無く真希に続けられる暴行に、震えながらその時間が
過ぎるのを待ち続けた。
「真希・・・ちゃん・・・?」
這うように真希のもとへ向かう桃子に、修治が気付く。
地面に刺したナイフを拾い上げると、素早く桃子の前に立ちふさがった。
「次は、お前らだな」
修治の言葉に、衛は心臓が破裂しそうになった。
荘太の顔が浮かんで消え、頭の中が真っ白になる。
「バーカ、ジョークだよ。・・・おい、お前、チクってなんかねえよな」
顔を上げた先で、鬼のような男が自分を見下ろしている。
真希が何をしようとしていたのかは分からないが、その威圧に耐えながら、桃子は細かく頷いた。
「ま、そりゃそうだ。本当のことなんか言える訳ねえよな」
修治はその理由を確認させるように、桃子の顔を覗き込む。
桃子は反射的に、顔を逸らした。
「つまり全部、お友達想いの真希ちゃんの、嘘だったって訳だな」
ため息混じりに言って、修治が、真希に近づいていく。
横たわる身体を足で2、3回小突くと、注目を集めるように人差し指を空に向かって掲げた。
「小賢しいことしてんじゃ、ねえよっ!!」
修治が叫んで、勢いのついた足が真希の無防備な身体を撃つ。
「ぐぇっ!」
不愉快な鈍い音と、カエルのような鳴き声。衝撃で真希の身体が草の上を転がる。
桃子はたまらず耳をふさいだ。
「やめてぇ!」
「ああ?」
自分の絶叫に振り向いた男の、冷たい目。
心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、桃子を貫いた。
「来週の日曜だ。プラス10万、持って来い」
タバコを口に咥えながら、修治は悪魔のようなセリフを続けた。
真希の携帯を取り出して時間を確認すると、乱暴に桃子の近くへと放る。
「俺だって鬼じゃ無えからな。それで勘弁してやる」
震える手で携帯を握り締めたまま、桃子は頷いた。
その姿に、修治は満足した様子で気を失った義妹を指差す。
「遅れたらああなるぜ。じゃあな」
吐き捨てるようにそう言うと、衛のほうを見て、ニヤリと笑った。
2人にとってあまりにも長く、信じられない時間が、終わりの時を迎えようとしている。
最後に修治は辺りに一瞥をくれ、少年達を従えるとゆっくりと去っていった。
「・・・真希ちゃん」
訪れた静けさの中、ようやく真希のもとへとたどり着いた桃子の瞳に、大粒の涙が溢れた。
さんざんに痛めつけられた少女の体を、桃子はそっと抱きしめる。
「・・・真希ちゃぁん・・・・・・」
反射的に身を起こしたのは、衛だ。
活発の象徴である短めの髪が、勢いよく翻った。
「き・・・救急車・・・呼んでくる!!」
でも、どうやって?
衛の脳裏に疑問が浮かぶ。
だが、迷っている暇は無い。
言うことを聞かない足に必死に気力を込めて、衛は走った。
途中、何度も腰から力が抜けた。倒れそうになった。
その度に、目の前で起こった現実に、自分を奮い立たせる。
(人・・・誰か、大人の人・・・!)
衛は自分にできる事を考えた。
誰か人を見かければ、その人に頼ればいい。
この先の公園には、電話ボックスもある。
そこまで行けば、救急車は呼べる。
けれど、脳裏に焼きついた、真希の姿。
もしかしたら、自分が何をしてもあのまま死んでしまうのではないか。
焦りと恐怖が衛を包みこむ。
道のりが遠く、おかしくなってしまいそうなほど遠く感じられた。
「こらこらっ。そこの小学生」
堪えきれなかった涙がじわりと染み出してきた時、衛は背後から覚えのある声を耳にした。
「どうした、こんな時間に。おサボりかい?」
振り返った先、木陰に車が一台、止まっていた。
その運転手は窓を開けて、満面の笑顔で自分に手を振っていた。
衛は駆ける。救いを求めて。
「ろっ・・・」
「ん?」
衛がようやく、安心を手に入れることができた瞬間だった。
「禄郎さぁん!!」
既に午後の2時を回っていた。
そういえば一時間以上会話が無いな。そう考えると、静か過ぎるのも問題アリのような気がして、
僕は思わず心の中で苦笑してしまった。
ともあれ、作業を半分以上終え手を休めると、僕はふと鈴凛のことを思い出した。
「鈴凛は、もうすぐだったな」
平悟さんは、まるで僕の心を見透かしているようだった。
「ええ、来週です。・・・多分、大丈夫でしょう」
ほとんど自分に言い聞かせるようにそう言うと、平悟さんは机に向かい背を向けたまま、頷いた。
僕はコーヒーを飲み干して、無意識に作業を再開する。
やがて下校中の子供たちの大きな話し声が耳に飛び込んでくる頃、平悟さんが再び口を開いた。
「前に言っていた、あいつが私立を受けなかった理由のことだが」
僕は過去の平悟さんとの会話を、検索した。
一ヶ月前、私立受験日にここに来た時の話だ。
家計への気遣いと、絶対の自信。
普段は小遣いをせびる鈴凛が、僕の懐を気にするという矛盾。
それを思うたびに、この一ヶ月、何だか可笑しな、けれど不思議と微笑ましい気持ちになった。
「そんなに気を遣わなくても、いいと思うんですけどね・・・。自信を持つのはいいことですけど」
「おそらく違うぞ。両方な」
意外な言葉に、僕はピタリと、手を止めた。
平悟さんは黙々と、ペンを走らせていた。
その時、家の電話が鳴った。
着信音から、禄郎の携帯からだと分かった。
「俺が出る」
平悟さんはそう言って立ち上がった。
僕は小さく返事をして、カッターナイフに手を伸ばす。
襖を開ける音がした。
低い相づちの声だけが、少しの間耳に届いた。
やがて平悟さんが、髭をさすりながら戻ってくる。
「荘太。ここはもういい。今すぐ望月のところへ行け」
望月とは、僕たち家族の掛かりつけの町医者の名だ。
僕はカッターの動きを止め、振り返る。
少しずつ血の気の失せていく自分がいた。
「白雪に何か、あったんですか」
「いや、衛だ。怪我はしていないようだが、ややこしいことに巻き込まれたらしい」
「衛? ややこしい?」
怪我はしていないという言葉に安心感を抱きながらも、僕の返事は、ただ気になった単語を
並べただけのものになった。
当然平悟さんは、腕をすくめるだけだ。
「禄郎も俺もよく分からんよ。とにかく、急げ」
「鈴凛、ジュース持ってきたけどー」
雲に覆われているせいか、3月にしては、今日はいつもよりずっと寒い。
オレンジジュース片手に、扉を隔てた向こうにいる妹に向かって、咲耶は跳ねた声を上げた。
二階の角、可憐一人の部屋。
鈴凛はこの中で今きっと、問題集と向かい合っている。
白雪が風邪を引いたことで、咲耶は鈴凛に、可憐の部屋に移って勉強するように言っていた。
「鈴凛ー?」
しかし、待ってみても返事が無い。
咲耶は時間を持て余すように、ストローをつまんだ。
指の動きにあわせて、青の縦じまがコップの中でさらさらと回転した。
「鈴凛? 寝ちゃってるの? 開けるわよー?」
ふと、窓から部屋の明かりがこぼれていないのに気付いた。
そっとドアを開け、足を踏み入れる。
部屋を明かりで満たすと、咲耶はぐるりと見渡した。
ドアの閉まる、ギイィという音が、妙に後を引いた。
「・・・鈴凛?」
僕が棚又市郊外にある小さな診療所へ駆けつけた時、待合室に禄郎の姿は無く、衛は泣きじゃくる少女に
寄り添っていた。
不安そうな顔で診察室の前に立っているのは、担任の石川先生だった。
「衛・・・」
衛が壊れてしまいそうな笑顔で僕に気付く。
僕は駆け寄って、そのまま衛を抱きしめた。
「ごめん、遅くなって」
衛は僕の胸に顔をうずめたまま、フルフルと首を横に振る。
手遅れになりかけている心の傷を感じて、僕は唇を噛んだ。
僕は視界を一周させて、ここの主である医師を探した。
「望月さんは・・・」
「今ね、中で治療してる。・・・・・・骨が折れてる、みたいで・・・・・・」
それだけ言うと、石川先生は目頭を押さえた。
問題児であろうが無かろうが、教師にとって教え子の怪我というのは、どうしようもなく辛い。
それが重いものならば、尚更だろう。
「よお、来たかい」
振り返った先、入り口に禄郎が立っていた。
手には、外の自販機で買ったと思われる缶コーヒーを持っていた。
「どうなってんだ? これ」
禄郎が向かいの長椅子に腰掛けた時に、僕はほとんど八つ当たりするように尋ねた。
彼は窓の外へ目をやったまま、静かにプルタブを上げる。
「俺に当たるな馬鹿」
自分で聞いておいて何だが、そのとおりだと思った。
禄郎に冷静に返されて、僕は自分を取り戻す。
となると、僕が事情を聞ける人間はもう、1人しかいない。
「衛・・・」
僕の胸の中で、衛がピクンと反応した。
「あったこと、話してくれないか? 言いたくないことがあるなら、それでもいいんだ」――――――
第12話に続く
あとがき
この話は前後編でして、しかも内容自体は13話にも続きます。
場面がコロコロ変わり、状況も変わり、理解しにくくなっていく。
しかも、長い。
1話1話が、今回と同じくらいになります。
僕に卓越した構成力があれば、話は別です。
けれど、そんなものは、無い。
だからこそ、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
そして、これから先もお付き合いいただけるのならば、本当にありがたいのです。
妙にしみったれた後書きですが、たまにはこんなのもいいかな、と(笑)
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